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豊見城市の指定文化財について

 

現在、豊見城市では、下記の文化財を市指定文化財として指定しています。

指定文化財の種類 指定文化財の名称 指定年月日
有形文化財
(古文書)
「口上覚」
(こうじょうおぼえ)
1993年(平成05年)
11月01日
有形文化財
(歴史資料)
「重修真玉橋碑」
(じゅうしゅうまだんばしひ)
1995年(平成07年)
03月29日
有形文化財
(古文書)
「字与根 大城家文書』
(あざよね おおしろけもんじょ)
2001年(平成13年)
03月06日
有形文化財
(建造物)
「真玉橋遺構」
(まだんばし いこう)
2006年(平成18年)
02月22日
有形民俗文化財 「饒波の龕」
(のはのがん)
2019年(令和元年)
11月1日
有形文化財
(歴史資料)
「印部石 ニ かなは原」
(しるべいし に かなはばる)
2019年(令和元年)
11月1日
有形文化財
(歴史資料)
「印部石 い をなか原」
(しるべいし い をなかばる)
2019年(令和元年)
11月1日
有形文化財
(歴史資料)
「印部石 ロ めさしふ原」
(しるべいし ろ めさしふばる)
2019年(令和元年)
11月1日
有形文化財
(歴史資料)
「印部石 ヌ めさしふ原」
(しるべいし ぬ めさしふばる)
2019年(令和元年)
11月1日

「口上覚」(複写)、「重修真玉橋碑文」、「字与根 大城家文書」(複写)は市歴史民俗資料展示室(市立中央図書館1階)に展示しています。
また、「真玉橋遺構」は、県道11号線沿い(字真玉橋)に移築・復元してあります
 

『口上覚』

『口上覚』とは、口頭で伝えただけでは記録として残りません。それゆえ、文書にして残したものです。内容は豊見城間切の地方役人である文子に任命されてから約40年間の履歴となっています。その一部を紹介しますと豊見城按司御守役を仰せ付けられたことや、お供して「江戸上り」に参加したこと、黍酒を玉城間切で稽古させ、御料理座へ納めさせたことなど地方役人の勤務昇進を知る貴重な資料となっています。
※文子=書記

「重修真玉橋碑」


表面


裏面

首里王府から島尻方面に行くには国場川下流を渡るのが便利です。しかし、1522年以前は橋がありませんでした。王府は宿道の整備、屋良座森グスクへの軍事道路として木橋を架けました。木橋は風雨や害虫により修理・維持費がかかり農民は負担に苦しみました。1708年には両岸の田畑を取り除き、石橋に架けかえられました。その後、1836年にも改修が行われています。

碑はその経緯を記述したものです。現在、石碑は1980年に台湾大学所蔵の拓本をもとに字真玉橋区民によって真玉橋公民館前に復元されました。

「字与根大城家文書」

「字与根大城家文書」とは、土地の所有や開墾などを認めた19世紀の古文書のことをいいます。開墾地の権利関係を記した「仕明知行帳」1冊、「仕明請地帳」2冊のほか、墓地の売買契約に関する「墓敷譲手形」「墓敷村証拠」各1冊の計5冊です。「仕明地」とは、士族や農民が新たに開墾した土地のことで、士族が開墾した地を「仕明知行地」、農民が開墾した地を「仕明請地」といいます。これらの土地は代々受け継がれ売買譲渡も認められています。「墓敷譲手形」「墓敷村証拠」は、墓地売買の証文(契約書)です。

「真玉橋遺構」

真玉橋は1522年に首里城ならび軍事的要素である那覇港を防御する目的として、尚真王によって架けられた橋で、首里王府と島尻を結ぶ交通の要所でもありました。

真玉橋は当初は木橋であり、中橋を真玉橋、南に世持橋、北に世寄橋、両端は名のない橋でした。1707年に改修工事が開始され翌年に石橋に架けかえられました。1809年には大雨のために川が氾濫し世寄橋が破損したために仮の木橋を架けたが再び大雨によって破壊されました。

その後、1836年に世寄橋を改築し、その北側に新たなる橋の世済橋を築き工事は翌年に終了したといわれています。

戦前までは1837年に重修した姿をとどめていましたが、先の大戦により旧日本軍によって一部が破壊されました。その後は米軍によって鉄橋が架けられ、石橋の部分も埋められてしまいました。1963年にはコンクリート製の橋に架けかえられ、1995年まで使用されていました。

1995年の試掘調査によって埋もれていた真玉橋の石橋遺構が確認され、1996年に行われた調査では当時を忍ばせる石畳やアーチ部分が豊見城市、那覇市の両市で発掘されました。戦後、半世紀を過ぎて再び「旧真玉橋」の風格ある姿を現したことによって当時の石工技術は目を見張るものがありました。

「饒波の龕」

饒波の龕(2014年)

 「饒波の龕(2014年)」  
 

 饒波の龕(2019年)

 「饒波の龕」(2019年)


龕とはかつて葬儀の際に死者を乗せ墓まで運ぶために使われた「輿」のことで現在でいう霊柩車のようなものです。
字饒波では「野辺送り(ソーローウトゥム)」の際、龕に納めた死者は「チューフー」と呼ばれた担ぎ手たちによって家から墓まで運ばれていました。
先の大戦により所有していた龕は失われましたが、1952(昭和27)年に再建されました。その後は火葬の普及により1967(昭和42)年頃を最後に使用されなくなりました。
2014(平成26)年、長年の役目を終えたため龕屋を取り壊し整備が行われることに伴い、「龕」本体が市教育委員会へ寄贈されました。
2015(平成27)年から2019(平成31)年にかけて劣化箇所の修復を行いました。
龕は豊見城市の葬制や地域の関わりを知る上で貴重な資料です。

印部石

に かなは原                     い をなか原
「ニ かなは原」                       「い をなか原」

ロ めさしふ原                ヌ めさしふ原
「ロ めさしふ原」                      「ヌ めさしふ原」             

印部石とは、1737年から1750に行われた元文検地の際に、測量の図根点(基準点)として用いられたものです。別名で「ハル石」とも呼ばれています。
印部石は各間切(現在の市町村に相当)に約200~250基が設置されたといわれています。表面にはカタカナや平仮名で「い・ろ・は・・・」の文字と、小地名である原名(はるな)が刻まれています。刻まれた原名には現在の地名と一致しないものもあります。
指定を受けた4点はいずれも細粒砂岩(ニービ)を加工したもので作られています。
印部石は首里王府によって行われた元文検地の状況を知る上で貴重な歴史資料です。

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